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東京高等裁判所 昭和56年(ラ)722号 決定

抗告人 日本鋼管株式会社

相手方 小野隆

主文

原決定を取り消し、本件を原審に差し戻す。

理由

一、本件抗告の趣旨は、主文同旨であり、その理由は別紙記載のとおりである。

二、よつて按ずるに、まず、抗告人が本件証拠保全の申立てにおいて求める文書提出命令の目的物は、相手方に関する診療録及び付属書類一切並びにレントゲン・フイルム若しくはレントゲン写真(以下「本件診療録等」という。)である。そうして、本件記録によれば、本件証拠保全申立事件の本案事件たる相手方を原告、抗告人を被告とする横浜地方裁判所昭和四九年(ワ)第一六〇四号解雇無効確認等請求事件において、相手方(原告)は、昭和四九年九月二日付をもつて相手方を懲戒解雇処分に付した抗告人の処分事由の一に関連し、相手方は、在職中鉄板線引作業(マーキン作業)に従事していたが、右作業は持続的な前屈姿勢をとることを余儀なくさせ、しかも狭隘な場所での危険かつ不断の緊張を要する作業内容であるため、入社後一年ほど経過した昭和四七年ころ腰部を中心として全身に及び重苦しい鈍痛を覚えるに至り、昭和四八年三月下旬ころ東京大学医学部付属病院整形外科において、今井重信医師の診療を受け、その後同医師が医療法人財団石心会川崎幸病院に勤務替えをした後も、昭和四九年ころから同病院に通院して同医師の診療を受けていたところ、同医師はその診療経過から相手方が、前記作業に起因して惹起された腰痛症に罹患している旨の診断をしたので、右診断結果によれば、相手方は、抗告人の命令する前記マーキン作業に従事することは困難な病状にあつたものであるとして、相手方の前記勤務状況を事由とする抗告人の解雇処分を、解雇権の濫用であると主張し、かつ、右職業性腰痛症に罹患した証拠として、本件診療録等に基づいて作成した今井医師の診断書等を、右本案訴訟において提出したこと、これに対し抗告人は、相手方がマーキン作業に起因して腰痛症に罹患したとする点は、その作業内容及び相手方の日頃の作業状況並びにその言動等から到底措信し難く、今井医師の職業性腰痛症の診断には、少なからず疑義があるとして、本案訴訟において抗争していることが認められる。

ところで民事訴訟法第三一二条第三号前段の、挙証者の利益のために作成された文書とは、挙証者の法的地位、権利又は権限を直接証明するために作成された文書及びこれらの法律関係の発生を基礎付けるために作成された文書と解すべきであるが、その作成目的は、作成者の作成当時における主観的意図に拘らず、客観的かつ合目的的に判定すべきであるところ、当該文書の内容に直接関係する者との間で、当該文書に関し、実質的に密接な利害関係を有し、又は有するに至つた者がある場合において、その者が訴訟上当該文書を利益に援用する必要性が大であり、かつ、当該文書を開示することによつて関係者が受ける法益侵害の程度が軽微であると認められるときは、右の者は、民事訴訟法第三一二条第三号前段の規定に準拠し、当該文書を自己の利益のために作成されたものとして、その所持者に対し、文書提出命令を求めることができるものと解するのが相当である。

ところで、医師が診療の過程で作成する診療録は、医師法第二四条により、その作成及び五年間の保存が義務付けられ、かつ、同法施行規則第二三条によりその診療録には病名、病状、治療方法等を具体的に記載することが義務付けられていることから、単に医師の診療行為における思考活動の軽減のための備忘録又はメモの類に留まらず、医師の診療行為の適正を担保し、さらには、当該診療行為の対象たる疾病、傷害に係る民事、行政等の分野における各種請求権の有無が争われる際における証拠を確保する使命をも負わされているものと解すべきである。従つて診療録及び通常これと一体をなして意味をもつレントゲン・フイルム若しくはレントゲン写真は、作成者である医師、診療の客体である患者のみならず、その請求権行使の相手方とされた行政機関や雇主等の如き第三者においても、前記諸要件を充足する場合には、診療録等の所持者に対し、文書提出命令を求めることができるというべきである。

本件の本案訴訟においては、相手方の雇主である抗告人にとつて、今井医師の診断に係る資料が訴訟の帰すうを左右する重要な証拠の一つであり、今井医師の証人としての供述のみでは忘失、記憶違い等の不備を免れず、診療過程を記録し、その経過において撮影されたレントゲン・フイルム若しくはレントゲン写真である本件診療録等の内容にまで検討吟味を加えなければ、今井医師の診断書に記載された診断結果の的確性又は不的確性を把握し難いことが窺われ、特段の事情のない限り、その証拠調べの必要性は大であるものといわなければならない。そして相手方は本案の訴訟において今井医師の診断書を証拠として提出している以上、当該病状につき相手方の法益侵害を問題とする余地はまずなく、本件診療録等の所持者も患者である相手方のプライバシーを理由に、その提出を拒むことは許されないものといわねばならない。

次に本件診療録等は医師法第二四条第二項により、作成後保存期間は五年であり、本件記録によれば、現時点において既に五年を経過していることから、緊急かつ継続的に廃棄される運命にあり、これらにつき本案の訴訟中といえども、証拠保全の必要性があるものといわねばならない。

そして本件証拠保全の申立ての当否を判断するには、訴訟の推移に照らして証拠調べの必要性の有無等につき、さらに原審において審理する必要がある。

三、よつて、原決定は、右と見解を異にし失当であるから、これを取り消し、民事訴訟法第四一四条、第三八九条第一項により、さらに審理を尽くす必要があるものと認め、本件を原審に差し戻すこととして、主文のとおり決定する。

(裁判官 林信一 高野耕一 相良甲子彦)

別紙

抗告の趣旨

原決定を取り消しこれを原審に差し戻す

との裁判を求める。

抗告の理由

一、抗告人と相手方との間に横浜地方裁判所昭和四九年(ワ)第一、六〇四号解雇無効等確認等請求事件が係属し、右事件において相手方の疾病が業務に起因して発生したかどうか争われていること、そして、抗告人が証拠保全のため診療録及びレントゲンフイルム等の文書提出と検証の申立をし、その申立理由は別紙決定書添付「証拠保全申立書」記載のとおりである。

しかるに、昭和五六年七月二七日付で申立を却下する旨の決定を行い、右決定書は同年七月二九日抗告人代理人方に送達された。

二、原決定の理由は、本件における相手方(原告)に関する診療録、レントゲンフイルムおよび付属書類が民事訴訟法第三一二条三号の文書にあたらず検証の手続きによるべきでないとするものであるが、右決定は次の如く、三点にわたり民事訴訟法の解釈を誤れるものと思料されるので本抗告申立に及んだ次第である。

三、(原決定の不当性)

(一)証拠保全の点について

本件の申立は証拠保全の申立であり、本申立が却下され確定されると永久に重要な証拠資料である診療録及びレントゲンフイルムは消滅する可能性があるが裁判の実体的真実発見のためには、右証拠が保全される必要がある。その点について、原決定は、説示を欠き何ら考慮を払われていない。

(二) 文書提出義務について

1 民事訴訟法三一二条三号の解釈は拡大される傾向にあり(フランス法、ドイツ法についてその傾向を指摘するものとして「文書提出命令をめぐる最近の判例の動向」小林秀之判例評論二六五号~二六八号)高裁判例として福岡高決昭和五二年七月一三日、大阪高決昭和五三年六月二〇日等がある。

そこで診療録と業務上か否か関連する使用者との関係について考えてみる。

2 診療録は医師に対し公法上作成と五年間の保存を義務づけているが、それは勿論一つには患者の適正な診療を継続的に行うための診療記録としてであり患者の診療を受ける権利と患者の健康を回復するための重要な役割を果さしめるからである。しかし、診療録の作成保存の義務は、右目的に留まるものではない。

即ち、患者に対する医師の責任を担保せしめるのみならず、近代法体系の整備に伴い医師の診療に法律上利害関係を生ずる第三者に対しても病歴の記録と疾病の客観的判断は後日のため証拠又は権利義務を発生せしめる文書となるからである。

例えば労働保護法や、保険制度の完備に伴い疾病の客観的記録や業務上か否かの判断にとつて診療録及びその他付属書類は重要な証拠又は権利義務を発生せしめる文書となる。

そのことは、医療過護の場合や薬害訴訟の場合に、診療録が重要な利益文書としての性格を持たしめるべきであるのと同様である。

以上の点を考えると診療録及びその付属書類は患者と実質上、利害関係を有する者にとつて、公法上重要な機能を果すものであり、単なる医師の備忘録に留まるものではない。

又、その様な役割を果さすべきものと解することこそ医師法第二四条の要求する合理的解釈であり現代の医療制度、保険制度、労働者保護法及び裁判所の真実発見義務に対応しての民訴法三一二条の拡張解釈に対する時代的要求に合致すると思料されるのである。

3 これを本件との関連で言えば抗告人が提出を求めた診療録などは、いずれも相手方の、腰痛症を業務上と診断し抗告人及び労基署へ、その旨の診断書を提出した今井重信医師作成の診療録などであり、同医師は相手方が使用者たる抗告人に提出することを知りつつ診断書を作成し抗告人に対する労働契約上の義務を免れしめるべく相手方の欠勤する権利の証明の用に供しており、この診断書のもとになる診療録が使用者にとつて利益文書の性格をもつことは明らかである。

更に大事なことは、労働基準法上、業務上の疾病であるか否かは、使用者にとつて直接実質的な利害関係をもたらすものであるところ、この業務上外の認定は診療録に負う所が大きいというより、それを根拠に認定されるといつても過言ではない。

蓋し、一日に多数の患者を診療する医師が個々の患者の病歴や検査結果を記憶していることなどは到底不可能であるから、当然診療録、レントゲン及び付属書類(検査結果表など)をもとに診断書を作成したとしか考えられない。

そして、診療録上業務上の疾病と判断されれば、労働者は様々の権利を法律上使用者に対し取得することとなつており、その点からも診療録及び付属書類は疾病が業務上か否かを争われている案件にあつては、利益文書と解されるのである。

4 この点、東京高決昭和五三年七月三一日決定(判例時報九〇八号)は、「しかして、医師法二四条が医師に対して診療録の作成と五年間の保存を義務付けているのは、かくすることによつて医師の患者に対する適正な治療を担保させるという行政目的に出たものであるが、かかる目的から作成された診療録であつても単なる医師の診療過程の記録としての内部的文書にとどまるものではなく、患者にとつても診療契約の履行又は行政強制の適否を判断したり、各種手当、年金等を請求するための重要な資料となり得るものである。したがつて診療録は、当該診療契約や行政強制の当事者たる医師、都道府県知事、患者又はそれらの者と実質的利害関係を有する者にとつては、後日の証拠のために、又は権利義務を発生させるために作成されたものとして、ここにいう『挙証者ノ利益ノ為ニ』作成された文書に該当することは否定できないであろう。しかし、相手方らは大川太郎本人でないのはもとより、同人に対する措置入院なる行政強制とその執行の衝に当たつた者でもなければこれらの者と実質的利害関係を有する者でもなく、」と説示しており患者と実質的利益関係のある者については、診療録が利益文書に当たる旨説示している。

この点からすれば、業務上外が争われている場合の使用者と診療録の関係は労働基準法上、直接利益関係を有するのであり、薬害訴訟の場合の患者と投薬効果といつた関係よりも更に密接な実体上の利害関係を有する文書と解せられるのである。この点、原決定の判断はあまりに形式的であり、近時の民訴法三一二条に関する解釈傾向や裁判における真実追求と公正担保の精神がより重視されている近代的傾向に合致しないものと思料される。

5 なお、本件にあつて、主治医今井重信医師は、医師としてより、労働運動家としての立場から労災問題にあたつており、本件相手方に対する診断も抗告人の思料するかぎり、極めて非科学的、非医学的なものである。

(原審今井証人に対する速記録参照)。

しかも労働基準監督者は、同医師の診断書をもとに、業務上の腰痛症であるとの認定を行なつており抗告人としては、これを承服できない。

しかも文書の所持者である東京大学附属病院も医療法人財団石心会川崎幸病院も本人さえ了承すれば診療録などの提出に異議はない旨申し述べているのに、相手方本人は自ら業務上の腰痛であることを主張し今井重信医師を証人として証人調を申出て、その取調が行われながらプライバシーを理由にこれに反対し、ために診療録の提出が行われなかつたのである。しかし腰痛を業務上と主張している相手方においてプライバシーを主張するのは、禁反言の原則に反するし、又腰痛症という病名からして患者の守られるべきプライバシーが真実発見より優先するとは到底考えられない。

6 又、原審にあつては、相手方を診療した主治医今井医師に対応し、抗告人の申請に基づき次回の口頭弁論期日である昭和五六年九月二九日に、相手方の腰痛症とその程度及び原因について、慶応義塾大学医学部助教授伊勢亀富士朗の証人取調が行われることになつているが診療録や及びその付属書類(レントゲン写真や検査結果表など)の有無は、同証人の証言の証拠価値を著しく左右する。従つて真実発見のためには、今井重信医師の診断の当否を判断する必要がありそのためには、信用ある第三者の医師により今井医師作成の診療録、レントゲンフイルム、付属書類を検証する必要があると思料されるのである。

よつて原決定の取消しを求める次第である。

(三) 検証申立について

本件申立は、証拠保全として診療録、レントゲンフイルム、付属書類(検査結果表を含む)の文書提出を求め予備的に右診療録やレントゲンフイルム、付属書類について証拠保全として検証を申し出たものである。

この点について、原決定は、いずれも書証としての取調方法によるべきであり、検証の方式は適当でないと説示し、この申立を却下するのであるが、右申立の対象中にはレントゲンフイルムがありレントゲンフイルムが検証物であることは明らかである。

即ち、レントゲンフイルムはその存在、形状、性質が問題である。そして診療録や付属書類にあつても今井医師が東大病院及び川崎幸病院でいかなる診療をしたか、診療録がどの位保存されているか、又、検査回数、検査内容はどうなのかがまず問題なのである。従つて診療録及びその付属書類にあつても文書の存在、形状性質がまず問題であつて、それらは実際に保存された記録にあたつてみないと判然としないのである。

そして、存在するレントゲンフイルム、検査表、診療録の存在、形状、性質が明らかになつて初めて文書の意味内容が問題になるのであつて本件申立内容として検証の手続によることは何等不相当ではない。

この点からも原決定は失当と思料されるので取消しを求めるものである。

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